魔女集会
「
どうして僕を拾ったんですか
どうしてあのまま死なせてくれなかったんですか
どうして他の奴隷を選んでくれなかったんですか
許さない
死ぬまで祟る
まあ、貴方は魔女だからそう簡単に死なないよね
訂正します
この世から太陽と月が消えてなくなるまで
お前を祟る
」
(羊皮紙に血で書かれたこの文章を置いて、弟子は何処かへ消えた)
「女だけの町があればいいのに」の根底
あるいは、なぜ性犯罪の被害者を責める人間が多いのか。
簡単なことだ。多くの人間は「何の罪もない人間は犯罪に巻き込まれることがない」と信じているからである。だから、事実何の罪もない人間が被害者となった性犯罪に対して、そのまま受け止めることができないのだ。
もちろん「加害者が生まれていなければよかった」「加害者が性犯罪を起こそうと思わなければよかった」「加害者があなたをターゲットにしなければよかった」「ここが女だけの町だったらよかった」など、直接的なセカンドレイプにならない幾つかのバリエーションは考えられるが、そこは人それぞれなのだと思う。
セカンドレイプをしない事は、「人間は何の合理的理由もなしに不幸に見舞われる」という信念のもとに生きる事と表裏一体だ。つまり、「私がいかに正しく生きようとも、明日不幸のどん底に落とされる可能性は1%も減らない」と常に自覚して生きる事だ。
おそらく、大多数の人間はそれでは身が持たないのである。
俺個人としては、さっさと女だけの町が出来てほしいと思う。
人の親と定型発達者にはなりたくない
願い下げだ。
年末年始に帰省して、何か悟ったような気分になっていたが、所詮そんなものは長続きしなかった。まあ、全く変わってないわけでも無かろうが。
俺は、俺を捨てる決断をした。
要するに、俺が俺のまま生きていたところで一生報われることがないどころか、いくら生き続けても恥の上塗りにしかならん。しかしながら死ぬという選択肢もさしあたって取れないため、俺じゃない、真人間に成り代わって生きようというわけである。
俺のように、人格形成途上で累積したストレスの埋め合わせをいつまで経っても求めてしまうバカは他にもいるかもしれないが、まあそんなストレスが本当にあったかどうかは証明のしようがないし、一般的にアラサーになってもそんなことをほざいている人間は憐憫ではなく嘲笑の対象である。
実際、正直に「嘘でもいいから『あなたは悪くない』と言われたい」と親に話したのだが、どうにも真意が伝わらなかったらしい。
(おそらく)母親は俺の言をこう解釈した。
「俺のために、『お前は悪くない』という嘘をついてほしい」と!
はっきり言う。
最悪だ。
次に何が来るだろう。決まっている。「親に嘘まで言わせたのにまだ気がすまないのか、何を求めているのか、他人を振り回すのも大概にしろ」という文句である。
「俺の為を思って」「俺の言うとおりに」「自分を曲げて俺に嘘をついた」のだ。余程大層なことをしたと自分では思っているだろう。だと言うのに、全く心に響く様子がなければ、そういう文句も出るだろう。
もちろん、俺はこう言ったつもりだったのである。
「俺が本当に悪くないかどうかにかかわらず『あなたは悪くない』と心から言ってくれる相手がほしい」
言外に秘めた部分まで言うなら、「お前はその相手として適格ではない」だ。
適格ではないのだから、母親に「お前は悪くない」という嘘をついてもらったところで精神的負荷にしかならんのだが、あちらの自己認識は「当人の最大の理解者、当人に最も寄り添うことができる者」みたいな感じなので、自分こそがこの子を救うことができる、救うべきなのだ、と考えて行動するのである。
こう書いていて、思わず怒りがこみ上げてくる。
思い上がるな。
百歩譲って、お前がそのように行動するのは勝手だ。
だが、許せないのはその行動に見返りを求めているところだ。
自分の思ったとおりの反応が得られないからと言って、俺に文句を言うな。
「理解できない」「私がどれだけ傷ついているか考えてほしい」「世の中はそんなに甘くない」「私はこうだった」「私がすべて悪いと言いたいのだろう」
母親の口癖である。
特に最後。
これはダブルバインド以外の何物でもない。
「そのようなことを言っているのではない」と答えれば「お前の言動は『母親が全て悪い』と言っているようにしか受け取れないのに、なぜ私に嘘をつくのか」
「そうだ」と答えれば「親に対してなんとひどい仕打ちだ、お前は私をどれだけ傷つければ気が済むのだ」
まあ、こんなところか。
こういう物言いをしておいて「自分の人生を生きてほしい」などと言う。
俺はほとんど当惑する。
「お前は『私の望むとおりに生きてほしい』しか言ってないだろう?お前は俺の本音をことごとく否定して、更生させようとしただろう?自分の人生とは、一体何を示しているんだ?」
もちろん、これを素直に口に出してはいけない。
「なんと僻んでいるんだ!私はそんなひどいことを口にした覚えはないのに!」と、更に手のつけられない状態に移行するからである。
しまいにはまともな思考すらできなくなり、「お前はすぐそうやって私が全て私の意のままに子供を操ろうとしていると言い出すのだ!実際意のままになんてなっていないのだから、それは間違いだ!」などと言い出すのである。
書いてて疲れた。寝る。
一年の計は元旦にあり
この言葉嫌いなんだ。
元日にした失敗を永遠に引きずれって言われてるみたいでさ。
まあ2018年にはなっちゃったけど元旦ではないから、ということでもう一本ブログを書く。
コンサータについてだ。
ここ数日は、昼頃に意識が戻り、そこから起き上がるのに数時間を要するザマだったので、コンサータを飲まない日が多かった。
今日は、久々にコンサータを飲んだ。
そこでこう思ったのだ。
「コンサータの効力とはどこにあらわれるのであろうか?」
巷ではスマートドラッグみたいな扱いも受けるコンサータであるが、その文脈で語られる場合、コンサータは何か「集中力をエンハンスする」とか、そういう効果を持つもののように解釈される。というか俺もそう思ってた。
だが、果たしてそうか?というのが今日一日を経ての感想である。
コンサータが行うのはむしろ、フィルタリングではないだろうか?
あるいは、情報への感度をむしろ下げるのがコンサータの役割ではないだろうか。
とかく俺のような人間は、ノイズに対する感受性が強い。
人混みに入ると、そこで発生している会話を拾って頭の中でトレースしてしまうのは日常茶飯事だ。
コンサータを飲まなかった日なんぞは、明かりを消してカーテンを締め切った夜の部屋の中で、火災報知器か何かのインジケータの光だけで部屋の中を動くのに事足りることもあった。
コンサータはそういう過敏を抑えているのかもしれない。
「集中力をエンハンスする」というのも、意識が向かう対象を必要十分まで「削る」というのが本質かもしれない。
そんなことを、思っていた。
実際のところどうなのかは知りません!鵜呑みにしないように!
幸せになるために
結局のところ、俺は死に損なったのだ。
例えば、内定を貰ったあたりで自殺していれば、両親はまだ夢を見ることができた。
「これから、うつも治って元気に仕事をして幸せになるところだったのに」と。
そんなことはありゃしないのだが。
例えば、心療内科に通い始める前に自殺していれば、両親はもう完全に悲劇の被害者になることができた。
ただただ「なぜこんなことに」と泣き喚き、彼らの知人も大いに同情したことだろう。
もちろん、自分たちこそが最大の加害者だとは一生思い至るまい。
それがどうだ。
俺は100万を超える借金をただ浪費によって作り出し、仕事は勝手に休職、挙句の果てには「誰も俺の不幸を理解しない」とかいうヨタ話をブログに書いているのだ。
俺の弟や父親はそんなクソ野郎の連帯保証人なのだ。今俺が死ねば、どうなることか想像もしたくない。
なんということだろう。
状態は確実に悪化しているのである。
それも、他ならぬ自分が悪化させたのである。
配属部署の上司にモラハラを食らったわけでもない。
偶然に遭遇した詐欺師に全財産を奪われたとかでもない。
親は俺を田舎の農家に軟禁するどころか、俺の可能性にかけて一度は失敗した関東での一人暮らしという環境を再び俺に与えてくれた。
何一つとして、客観的に明らかな「不幸」はなかったのだ。
すべて俺が悪い。
なお、万が一俺よりも「愚かな」人間がこのブログを読んでいたら、どうか、「このブログの理屈にしたがって、比較的被害の少ない今のうちに自殺する」ことだけは、思いとどまっていただきたい。
俺は、あなたの死にたさを刺激するために書いたわけではないのだ。
俺が討ち果たすべきは、もっと別の人間なのだ。
俺は、あなたのような人の癒やしになりたかった。
誰のために書くのか?
ブログを立ち上げたものの、最初の記事に誰もアクセスしなかった。いい機会だから、誰のために書くのか考えようと思う。
ひとつ考えていただきたい。
子供の頃に父を病で亡くし、それでもぐれずに生きてきて、生まれてきた二人の息子を一生懸命育て上げたと思ったら、長男の発達障害が発覚。当の本人に「望んで生まれてきたわけじゃない」とまで言われても、彼の幸せを祈る母親
親の金を十万単位でソーシャルゲームにつぎ込み、大学を中退、専門学校をバイトもせず卒業させてもらい、やっと就職した先でもコンサータを飲み忘れて一日中居眠りするなどしている息子
どちらがより可哀想に思えるだろうか?
俺は、ここで迷うことなく「息子」と答えるような人間のためにブログを書くのだ。
仮にそれが俺だけだとしたら、俺だけのために。
俺の他にもいるなら、その誰かのために。
また、下記に挙げるような人も、読者として想定している。
A. 「どちらかといえば息子の方が可哀想に思える」と思った人
B. 「人間は等しく可哀想であり、それは比較できるものでない」と思った人
逆に、正直に申し上げて読者になってほしくないのは、
C. 「明らかに母親の方が可哀想だ」と思った人
D. 「どちらも一般的な人間より可哀想だ」と思った人 - 特に、これに該当していながら自分をB.だと思っている人!
である。
ここまで書いて疲れてしまった。休もうと思う。