殺人の動機・II
私は油断していた。
先のエントリからわずか二週間。Hagex刺殺は明らかに「誰でもよかった」ではなかった。 別に「殺人者かくあるべし」と主張したわけではないので、関係がないといえばないのだが。
今回は少し話を発展させよう。
「でも殺されるくらいなのだから、殺された人も何か余程のことをしたんでしょう?」
今回の刺殺はこちらのサイドだ。殺した側にとってHagexのしたすべてのことは、死をもって償うに値することだった。 ところで、先ほどの引用文を疑問文で終わらせているのには意味がある。 普通なら、その先にはこのような言葉が続くのではないだろうか。
「それじゃあ殺されて当然よね~」
なぜ前回のエントリでここまで書かなかったか。 それは、前回のエントリは「殺された人は悪者だと推測すること」をメインにしていたからである。
今回のエントリでの主張はこうだ。 「殺した方の動機が十分理解に値すること」と「殺された人を『殺されて当然のクズ』であると断定すること」
両者は連続していない。
前者の成立を以て、後者を正論として主張してはいけない。
私が殺したいほど憎い相手や、君が殺しても足りない程の憎悪を抱く相手は、いかなる場合であっても、 「殺されて当然のクズの部分集合」ではない。
私が、私の憎悪を制御しきれぬほど育てた末に完成した私の殺意によって殺すのだ。それはどこまでも私の問題だ。 わざわざ相手の行状を整理して「一般的に『殺されて当然のクズ』と呼ぶことが可能であるか」なんて検証するのは時間の無駄だ。
だから、君たちも「殺された方がクズだったかどうか」を判定するのに無駄な時間を使うのはよし給え。
たくさんの友達が君のことをクズでないと認めてくれていても、そして実際もっと総合的に判断して十分にクズでないと言い得るとしても、
そんなことは関係なく、君はある日刺されて死ぬ。
まあ死なないかもしれないし、別の要因で死ぬかもしれないし、様々なんだけど、いずれにせよ死ぬ瞬間をどこかに仮置きして、 それまでにやっておきたいこととかやるべきでないこととか腑分けして、粛々と人生をやっていきましょう。という話でした。
殺人の動機
殺人事件の被害者遺族にはかける言葉がないし、とはいえ別に私には関係ないのでこういう弱小ブログで物を言うんだけど。
殺人者が「誰でもいいから殺す」をやらなくなったら何が起きるか。
「でも殺されるくらいなのだから、殺された人も何か余程のことをしたんでしょう?」
この理屈の「尤もらしさ」が大幅に増すんですよ。
殺されるべき人間を殺すのが当たり前になれば、殺された人間を見てこいつは殺されるべき人間だったのだろうと推測するのが普通になる。
そんなときに被害者遺族は何を思うか?
そう考えると、「殺されていい命なんてひとつもない!!」で思考停止していた方がまだマシだ。
そういう安い正義感から逸脱しないでくれ。そのまま一生を終えてくれ。君たちには僕のような人間より遥かに大きな影響力があるんだから。
よろしく頼む。
真の敵はマスメディアではない
http://wezz-y.com/archives/53907
筆者には敬意を覚える。ペドフィリアに対する憎悪一辺倒のゴミ記事とは全く違うものである。
しかしながら、筆者は一つ誤っている。
以下のツイートは直接的には全く関係のないものだが、少し覚えていてほしい。
https://twitter.com/barzam154__/status/986762382163689472?s=19
>「LGBTばかり正義ヅラしてうざい」という不満のもと、「あいつらPZNを加えたら発狂しそう」「炎上させよう」という狙いで広められた
これはおそらく事実である。
しかし、筆者はこのようにまとめている。
>子供を性欲の対象にする日本人の皮肉で広められた
私は、これは明確に虚偽であると主張する。
もう一度。
https://twitter.com/barzam154__/status/986762382163689472?s=19
何か見えてこないだろうか。
ここでタイトルに込めた私の主張を提示する。
真の敵はマスメディアではない。
敵はマス(大衆)そのものである。
>「あいつらPZNを加えたら発狂しそう」「炎上させよう」
このように企てた人間の何割が実際に小児性愛、ほかZやNを抱えて居ただろうか?
私は一割未満であると確信する。
「作者の気持ち」というキーワードに対して「締め切り」という反射をするだけの、思考しないマスと全く同じ層が、「PZN」という新しい玩具を見つけたということに他ならないのである。
真の敵というのは、「LGBTにPZNを加えて炎上させようぜ、まあ俺はロリコンじゃないけど」という人間ども、すなわち大衆である。
この行為によって、LGBTの側にはPZN(特にP)が難癖をつけてきた、という「事実」が記録される。しかし、それをやったのはPではないと私は言う。
自分のセクシュアリティを、そんな目的で使うほど私たちは愚かではない。
腕を切る
痛みがある。
傷口から血が流れる。
こうして私は、私が人間であることの証拠を2つ手に入れる。
そうして、わずかばかり安堵して、眠る。
フィクションと欲望と当事者性なるもの
結論から述べる。
貴方が「登場人物Aから登場人物Bへの行為X」を描いたフィクションを楽しんでいるとき、貴方はXの当事者ではない。
貴方が気を付けなければいけないのは、「私はXを好ましく思う」と表明することに関しては、貴方はどうしようもなく当事者である、ということだ。
貴方が真に内省しなくてはならないのは、「『Xは好ましい』と不特定多数の人間に向けて発信したこと」のみである。
たとえ貴方が行為Xをしたことが無かろうと、あるいは貴方が自分(や、他の人々)は行為Xを誰も傷つけることなく実行することができると自負していようと、それとは全く独立に、貴方の「好感の発信という行為」による影響を受ける人間が存在するということを、常に自覚していなければならない。
自分が何の当事者であり、何の当事者でないのかを見誤ることこそ、被害者を増やすことに繋がると私は考えている。
毒親コンテンツの可燃性
端的に言う。
そのコンテンツから僅かでも女性蔑視を読み取ることができれば、そのコンテンツは燃える。女性差別への反抗のおまけとして、毒親成分も批判される。
そのコンテンツを主体的に楽しむ女性が多いなどで、一方的な女性蔑視との断定が明らかに困難な場合、そのコンテンツは「不燃」である。
勿論、毒親からのコントロールを受けた人間にとって、コンテンツから受ける精神的苦痛に前者と後者で差異があるということはない。
肝に命じておかなければならないのは、前者が燃えたのはあくまで女性差別の文脈に乗せることが可能だったからであり、親の有害性が問題視されたからでは無いということである。
俺やお前の味方は何処にも居ない。人間を捨てよう。せいぜい50年うまくやり過ごせば永遠に終わりだ。その中で自分だけは正しかったと証明する必要は無いのだ。人間を過信するな。人間は俺やお前が死んだあとも誤り続ける。「総体としての人間は正しくあろうとするはずであるから、正しいことを主張すべきだ」というのは、人間に対する過信である。俺たちは、内心で嘲笑っておれば良いのだ。
地雷避け
フィクションにおける欲望の位階と、「地雷」について。
ある表現が他人の地雷であるという想像力は、限定的にしか働かない。
特定の表現が誰かの「地雷」である、ということを皆が体得的にうっすらと理解しているという現状は、「地雷を踏んだ!」と大声をあげる人がこれまで何人もいた結果、その経験が共有されているということに過ぎず、あらゆる創作行為が本質的に地雷である、と分かっているわけでは無いのだ。
構造はこうだ。
皆、創作には二種類あると思っている。
「花束」と「地雷」である。
もちろん、地雷は他人に踏ませないように気を付けるが、そこが限界だ。
「花束を見て苦しむ人間」のことはそもそも想像できないのである。
現実には、あらゆる創作、ひいてはあらゆる言語的非言語的表現は、受け手に何らかの反応を起こさせるという意味で地雷的なものである。
その爆発の程度が受け手によって異なり、快であったり不快であったり、死ぬほどショックだったりするだけだ。
しかしながら、多くの人間は「表現Aは危険だが、表現Bは他者にとって危害にならないものである、AとBの区別は明確に可能である」という誤解をする。
かくして、花束を愛でている展覧会場で突如人間が爆死するという事態が発生するが、人々はまさか花束で人が死ぬとは思い至らず、花束を愛で続けるのである。