地雷避け
フィクションにおける欲望の位階と、「地雷」について。
ある表現が他人の地雷であるという想像力は、限定的にしか働かない。
特定の表現が誰かの「地雷」である、ということを皆が体得的にうっすらと理解しているという現状は、「地雷を踏んだ!」と大声をあげる人がこれまで何人もいた結果、その経験が共有されているということに過ぎず、あらゆる創作行為が本質的に地雷である、と分かっているわけでは無いのだ。
構造はこうだ。
皆、創作には二種類あると思っている。
「花束」と「地雷」である。
もちろん、地雷は他人に踏ませないように気を付けるが、そこが限界だ。
「花束を見て苦しむ人間」のことはそもそも想像できないのである。
現実には、あらゆる創作、ひいてはあらゆる言語的非言語的表現は、受け手に何らかの反応を起こさせるという意味で地雷的なものである。
その爆発の程度が受け手によって異なり、快であったり不快であったり、死ぬほどショックだったりするだけだ。
しかしながら、多くの人間は「表現Aは危険だが、表現Bは他者にとって危害にならないものである、AとBの区別は明確に可能である」という誤解をする。
かくして、花束を愛でている展覧会場で突如人間が爆死するという事態が発生するが、人々はまさか花束で人が死ぬとは思い至らず、花束を愛で続けるのである。